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  Le Vin Nature フランス自然派ワインニュース  (6/20 2007)
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20世紀のブドウ栽培・ワイン醸造の歴史の1ページ



Midi地方のブドウ栽培・ワイン醸造者の反乱:"vive le vin naturel" (自然派ワイン万歳!)

1907年春、ブドウ栽培・ワイン醸造家の反乱は、フランスのMidi地方を
国民義務の不服従へと導いた。税金の未払い、市長の退陣、そして兵士の暴動は、
共和国を気遣うGeorges Clemenceau首相を心配させた・・・

2007年6月に、ラングドック−ルーションでは“ブドウ栽培・ワイン醸造家の反乱”
(Revolte des Vignerons)の100周年を祝います。この記念日に、私達は、20世紀初めに
起こったこの反乱を取り上げます・・・(なお、今回登場するle vin naturel=自然なワインは、
この時期に出回っていた不正ワイン=ブドウ果汁に様々なものを加えてつくったワインや、
ブドウすら使わずにつくられたワインに対抗する言葉です。この時期は、全うに作られた
ワインは基本的にはすべて“ビオ”ワインでした)

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1857年頃、Midiとパリを結ぶ鉄道路線の完成により、ワインの需要は増大しました。
販売は頂点に達し、隆盛を極めました。ワインは常に好況をもたらし、北方の市場はMidi
のワインを受け入れました。至る所で、小麦はブドウ畑に植え替えられました。お金は
大量に流れ込んできました。


イギリスとアメリカからやってきたうどん粉病、フィロキセラ、ベド病などの病気は、
確かにブドウ畑に大損害を与えました。1868年からフィロキセラはラングドックのブドウ畑に
達します。しかし、救済策はすぐに発見されました:平地のブドウ畑は意図的に浸水させ、
アメリカの台木を植えました。自力で、また小さいブドウ栽培・ワイン醸造家は借金をすることで、
Midi地方があたかも単一作の様相を呈するまで、ブドウ畑はどこにもかしこにも広がっていきました。


価格は急騰。お金を稼ぐのは簡単でした。BeziersやNarbonneは、あたかも小さい
バビロンのようであり、そこでは全ての過剰さが受け入れられました。
(?Beziers, Narbonne semblent ≪ de petites Babylone, ou tous les exces se donnent rendez-vous ≫)
しかし、繁栄の真只中で生産が増え続ける一方で、突然、ワインの価格は1900年から
1907年にかけて下がりました。


過剰生産に繋がる好収穫(1904年だけで96%の増加)とフランスの植民地であった
アルジェリアからの輸入競争は、販売不振をもたらします。これに加えて、人工的に
作られた不正ワインの増加が過剰生産に拍車を掛け、ワインのブランドイメージを
低下させました。1898年には1ヘクトリットル辺り20フランだった価格は1900年に
11フランになり、1904年には7フランまで下落します。1907年には、ある人々は
ヘクトリットルあたり50セントで叩き売っていました。消防隊は火災を消すのに
ワインを使用し、レンガ職人はモルタルをワインで混ぜました。悔しさと絶望から、
下水道にワインを捨ててもいました。逆境のスペクトルは農村や町を埋めつくしていました。
このような状況は長く続きません。



(左)Marcelin Albert (右)Ernest Ferroul市長
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ここに、“反乱”のシンボルが現れます:Marcelin Albert氏、激情的な
ブドウ栽培・ワイン醸造家であり、≪ Lou Cigal ≫ (la tete folle)というあだ名が
つきました。(注:Cigalは蝉、Teteは頭、Folleは狂ったという意味ですが・・・
ニュアンスが分かりません)Marcelin Albertは、1900年から新たな情熱を感じていました:
“自然なワインの擁護(la defense du vin naturel)”。
ドンキホーテのように彼は町中を駆け巡り、不正を働く人々に対して“聖戦”を説いて回りました。
市場の日には、椅子かプラタナスに上っている彼をみんなが目撃しました。彼のもう一つのあだ名は
「プラタナスの上のお説教や」です。1907年3月11日まで、彼はむしろ批判と嘲弄の的でした。
その日、Argeliersでは、Marcelin Albertの庇護を受けて、50人がNarbonne で彼に合流するために、
Minervoisの小さな町を出発しました。自然なワインの擁護のために戦うことと、
Midi地方のブドウ栽培・ワイン醸造家の困窮を訴えるためです。


町を越えるに連れて、ブドウ栽培・ワイン醸造家の集まりは、一つの部隊のように
膨れ上がっていきます。しかし、郡庁に迎え入れられ簡単な会合を持った後、Marcelin Albertは
「だまされた」ような印象を持って郡庁を出ました。彼は、闘争を続ける事を決めます。
群集は増加していき、この集まりは急速にデモへと変化していきます。デモに参加する
人々は増え続けました。そして、1907年の12回の日曜日、群集はこの地域の全ての町に
集合しました。3月24日は300人でしたが、6月9日はMontpellierに800,000人が集いました。
日曜日ごとに、抗議活動は大きくなっていきました。ブドウ栽培者・ワイン醸造家は無敵に
なったような気になり、状況の深刻さを軽視していた政府に立ち向かいます。階層間の対立に
慣れていた政党は、この農業小作人と地主を結集させる民衆運動にとまどいました。


5月12日のBeziersでの会合で、Ferroul市長は政府に対する最終通牒を採択します:
「もし6月10日までに、政府が何もしないのなら、市議会の任務を放棄し、税金支払いの
ストライキをする」。5月12日、Perpignanの会合で、Ferrou市長はBeziersで描かれた
方針を確認します。6月2日、250,000人がNimesでストライキを行いました。女性の数も
どんどん増えていきます。


"Vive le vin naturel"(自然なワイン万歳)、“60歳の老人の鉄拳を!”“不正業者を倒せ!”。
この地域では、動員数は桁外れでした。ストライキを受けいれるため、人々は家を貸し、
商店は魅力的な価格をつけました。市長は学校の設備一式を取り除く命令を出し、
デモの参加者を学校に滞在できるようにしました。司教は真っ先に町の教会を開放しました。
レストランやカフェ、ホテルは満員でした。


6月9日に、デモの流れはラングドックの首都であるMontpellierに侵入しました。
その日は暑く、行列はお昼に始まり、14時にはEsplanadeに到達します。その数は、
600,000人です。行列は最も印象深いものとなりました。歌も無ければ、悲鳴も上がりません。
Marcelin Albertは真の崇拝の象徴となります。彼が通過すると女性達は涙を流し、
彼にバラの花を投げました。演説者のそばで聞くために、演壇の前に集まりました。


今では“贖い主、伝道者”と呼ばれることとなったMarcelinが現れたとき、彼らは宗教の
ミサのように彼の話を聞き、声の変化のたびに拍手をおくりました。彼は団結を呼びかけ
演説を終えます「あなたは税金を払わないことを決断しましたか?全ての市会議員の退陣は
宣言されました。自然なワイン万歳!」

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「Midi動く!」全ての編集者が書きました。同じように暴力事件が起こります:5月12日、
デモの参加者は鉄道を阻止するためにバリケードを築きます。16日、Beziersでの暴動は市長の
退陣を要求し、軍隊の介入が必要になりました。5月26日のCarcassonneの集会は、明瞭に
異議申し立ての口調をとりました。そして地域の通信員は、これを次の革命の宣言とみなしました。
Narbonne の市長Ernest Ferroulはその情熱によって群集に強い印象を与えます。しかし今回、
国内報道は、そのMidiの独立国家を示唆する分離主義的な言動におびえました。6月9日、
Montpellierの夜、状況は悪化します。乱闘が起こり、やじられた憲兵と騎兵隊は投石をうけます。
さらに悪いことに、Montmorency de Narbonne兵舎の歩兵100連隊は、国際労働者連盟の口調に反対しました。


6月10日の20時、Narbonneで「警鐘が悲痛なふるえと共に鳴り響きます」。10,000人が市庁前に集合しました。
Ferroul市場が市庁のベランダに現れ、大声で叫びました「市民よ、私はあなた達の信任により、
政治的権力を得ました。それをあなた達に返します。市のストライキが始まります・・・」守衛が、
不幸の象徴である黒旗を巻き上げました。彼の振る舞いはすぐにラングドックとカタロニア地方の
市長に理解されました。6月半ば、442人の市長が辞任しました。そして6月末には618人が辞任。
Herault地区の76%、Aude地区の53%、Pyrenees-Orientaleの44%です。Midiは、市民の不服従の
中にありました。社会的不安は、Aveyron、Gers、Girond、Lot そしてJuraまで広がりました。


Narbonne市長の挑戦に打たれて、Georges Clemenceauは反応しなければなりませんでした。
ブドウ栽培・ワイン醸造家は共和国を危機に陥れました。Clemenceauは市長の辞職を拒否し、
長い手紙を彼らに送ります。彼はFerroulを説得し交渉するよう期待しました、しかし彼は
「300万人の民衆に支えられているとき、交渉はありません」と返答します。しかし、
政府の長としては、法律に沿うより手はありません。軍隊の波が、したがってMidiに襲いかかりました。
60,000人の歩兵と憲兵が町と村を占拠しました。BeziersとNarbonneでは、2人の市民に対して
1人の兵士の割合です。夜間外出禁止令も発動されました。


6月19日、朝4時:Ferroulとブドウ栽培・ワイン醸造家委員会のメンバーは約千人の兵士に逮捕され、
Montpellierの牢屋に連行されました。やつれたMidiの人々は断念しませんでした。鎮圧は、
むしろ第二の活力を彼らに与えました。Midiは暴動の状態で存続していました。最悪を恐れていました。
その夜、Ferroulの釈放を要請するために来たデモ参加者によるNarbonne郡庁襲撃の後、
胸甲騎兵はGambetta通りで群集を攻撃します。数発の弾丸が労働者Louis Ramon氏を貫き殺しました。


6月20日の午前中、Narbonne市は喪の悲しみに包まれ、商店やカフェ、レストランは店を閉めました。
報道のふりをした秘密警察についてのうわさが駆け巡っていました。疑惑者の追及が始まりました。
Ferroulの逮捕に参加したことで知られるGrossot警部は、Robine運河に投げられました。一人の男性が
怒り狂った群集にやめるように呼びかけ、何人かの人たちが警部を助けるために手を貸しました。
市庁の表玄関の階段上には、139歩兵隊の一団が武装して待機していました。兵士は、本能的に群集に突入し、
銃剣の弾を発射しました。5つの死体が舗道に横たわりました。そのうち、20歳のCecile Bourrelの頭は
弾丸で砕け散りました・・・


同じ6月20日、Perpignan県庁が燃えました。Agdeに駐在しているラングドックとカタロニア地方の
第17歩兵連帯は、北に派遣されることを恐れていましたが、武器を持って士官をけちらして、
Beziersにやってきます(上司の命令に背いて市民を守る為に)。6月21日の朝、彼らは象徴的に劇場の
前に陣取りました。そこは毎週金曜日、ネゴシアンとワイン販売者がワインの相場を決めていた場所です。
商人から補給を受け、民衆に励まされることで、彼らはすぐに自分たちが難局に立たされていることが
分かります。どうしたらいい?Narbonneに行くか?それは考えられません。降伏するか?たぶん、しかし、
懲罰が無いことを保証してもらったら。午前の終わり、何人かはSaint-Jacques兵舎に帰還し、他のものは
野営し、市民と議論しました。


あらゆる地方の兵士が、この第17歩兵連帯の反旗を抑圧するためにBeziersに向かいました。この時、
Palais-Bourbonでは、Midiの議員が閣僚の辞任を要求していました。Clemenceau首相は、
暴動の終結を宣言することでこの危機を切り抜けます。この新しいニュースにより危機が緩和したことで、
議員は327票対223票で内閣を再信任します。

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6月17日から姿をくらましていたMarcelin Albertは、ブドウ栽培・ワイン醸造家委員会の意見に反して、
Clemenceau首相に会うためにパリに向かうことを決めます。6月23日に会合がもたれました。
この2人が何を話したのでしょうか?意見は分かれています。分かっていることは、Marcelinは涙を流し、
Argeliersに帰るために、Clemenceauから100フランを受け取ったということです。<Midiへの裏切り>
とみなされ、彼は仲間たちから村八分にされます。


Clemenceau首相は、共和国の為にこの危険な状況を打開しなければならないことを理解していました。
まず最初に、彼はこの反乱の動機を骨抜きにすることを試みます。6月29日、議員は不正に対処するために
法律を採決します。8月2日、ブドウ栽培・ワイン醸造家委員会の逮捕者を釈放しました。Marcelin Albertは
危うくリンチされそうになりました。彼は、委員会を辞職し、Ferroul<新しい救世主>にその職を受け渡します。
しかし、Narbonne市長を辞職した彼は、自分もまた難局に立たされていることが分かっていました。運動は、
勢いを失っていました:労働者は失業に苦しみ、権力者は、辞職を翻し始めました。名誉を保って、
この危機を切り抜けるにはどうする?


Clemenceau首相は、Midiをもう一度元に戻す方法を探しました。もしできるなら、彼らの面子をつぶす
やり方で。彼は、第17歩兵隊の550人を罰し、南チュニジアGafsaの厳しい軍キャンプに派遣します。
彼は、ブドウ栽培・ワイン醸造家の反乱に立ち向かった全ての兵士にレジオンドヌール勲章か
軍メダルを授けました。抑圧を正当化するために、かれは、Midiのイベントについて軍隊と支持者版の
公式文書を発表します。そこでは、第17歩兵隊の軍規不服従について、市民への発砲を拒否したため
と記されています。Clemenceauにとって最大の疑問は、どのようにFerroulと委員会の指導者を打ち負かすか、
でした。訴訟?あまりにも危険が高すぎます。政治的手段しか残っていません。1904年と1905年の
過去の税金を徴収しないことに合意した後、Clemenceau首相は、収穫の真っ只中に新しいNarbonne市議会の
選挙を命令します。しかし、これは失敗でした!1907年9月22日、Ferroulの社会主義政党はいま一度
選ばれました。長期に渡る社会主義とブドウ栽培・ワイン醸造の強い絆です。


同日、Ferroulの指導の下、ブドウ栽培・ワイン醸造家総同盟が発足します。これは、不正を正し
自然なワインを擁護する共通の闘いのために地主と労働者を結び付けました。


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ワインの価格はなぜ下がったか?

20世紀のワイン価格の下落をどのように説明したらよいでしょうか?シードル、
ビール、アルジェリアワインとの競争、反アルコールキャンペーンによる消費の低迷などが言われます。
Le Petit Meridional(急進社会主義の日刊紙)は、過剰生産を問題視しました。国会は、
蒸留用アルコールの不足を強調しました・・・Marcelin Albertとブドウ栽培・ワイン醸造家にとっては、
不正ワインが原因でした:新鮮なブドウ果汁から作られた自然なワインは売れず、一方で水やビートの糖分、
ブドウの搾りかすから作られたワインが成功を収めていました。さらに、酸と着色料と乾燥ブドウから
作られたワインも市場でみかけました。人為的で不純なワインに対抗して、不正ワインに対する1905年に
制定した法律がありましたが、ネゴシアン、北方の農家、砂糖用のビートの生産者や飲料会社の圧力により、
法律が機能することはありませんでした。


現在、この不正ワインは55,000,000ヘクトリットル中10,000,000ヘクトリットルだけが関係していた
ことを知っていますが、しかしMidiを滅亡させる為の陰謀という意見は集団の想像力を支配し、
他の全てのブドウ栽培・ワイン醸造に関する危機を忘れさせるまでに至りました。


ここに幾つかデモのスローガンを紹介します。



Viva lou vi pur de nostre terraier ! (Vive le vin pur de notre terroir !)
「テロワールの純粋なワイン万歳!」

A la mar lou sucre ! au lez lou fraudaire ! (A la mer le sucre ! Au lez le fraudeur !
(Le Lez et la riviere qui coule a Montpellier et la fraude = vin artificiel)
「砂糖の海だ!不正者の近くは!」

Nous fairen creba la pel mai salvaren lou bi naturel !
(Nous nous ferons crever la peau mais nous sauverons le vin naturel ! )
「俺たちはクタクタだけど、自然なワインを救う!」